開かれていくイメージ

目の前に存在するものから別のイメージが見え始める。

私たちはその体験から多くの知らない存在や無知のものへと近づこうとする。

近づこうとするあまり、命を落とす者までいるというくらい恐ろしい存在であるイメージ。

それでも人は目に見えないものを見ようとしたり、信じたいのだと思います。

先日、大阪のスタンダードブックストアにて開催された 志賀理江子さんのトークイベントに行ってきました。そこで志賀さんがおっしゃっていた写真の「わからなさ」もイメージの持つ〈救い〉と〈恐ろしさ〉の両極性あっての言葉だったのではないでしょうか。

単純に目でものごとを見るという行為ではなく、身体を近づきたい対象に浸し身体を目にする事で言葉や哲学とはかけ離れた領域で自分に近づける。そしてそこから見える景色はイメージの開かれた成果であり生命力の源に通ずる道のようなものなのかもしれません。

私たちが見ているものはいったい何なのでしょうか

流される情報は私たちのためのものなのでしょうか

目に見える風景には見えないものもたくさん浮遊している気もします

流れてこない情報

目には見えないもの

少しだけでもいいから意識を見えないものへ

私たちが見ているものはいったい何なのでしょうか

流される情報は私たちのためのものなのでしょうか

目に見える風景には見えないものもたくさん浮遊している気もします

流れてこない情報

目には見えないもの

少しだけでもいいから意識を見えないものへ

木村友紀さんの展覧会は非常に面白い体験でした。
イメージと出会い、歩きまたイメージと出会う。そして間仕切りされた何もない空間に何かが見え始める。
日常生活の中で無意識に私たちがおこなっている身体的なイメージとの関わりを意識させてくれるような作品でした。

木村友紀さんの展覧会は非常に面白い体験でした。
イメージと出会い、歩きまたイメージと出会う。そして間仕切りされた何もない空間に何かが見え始める。
日常生活の中で無意識に私たちがおこなっている身体的なイメージとの関わりを意識させてくれるような作品でした。

あの日以来…

私たちは変わった?

私たちは変えようとした?

私たちがいままで当たり前としていたこと

私たちが目を向けようとしなかったこと

私たちは気がついた?

私たちは気づこうとした?

私たちに流れてくるものが都合の良い私たちを作りだしていること

私たちの目の前には私たちがいないこと

私たちは送っている?

私たちは見つけようとしている?

私たちの意識状態から私たちの視線があること

私たちの行いが私になること

私があなたになる事を